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太宰府天満宮 菅原道真はたたり神な件

太宰府天満宮
太宰府天満宮

太宰府に祀ってあるのは、平安時代の政治家です。

菅原道真(すがわら の みちざね)は、承和12年6月25日(845年8月1日) – 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、55歳で没しました。

 日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家です。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇進しました。

しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され太宰府で没したのですが、

死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となりました。

現在は学問の神として親しまれており、受験シーズンになるとたくさんの受験生が訪れます。

東京の平将門、菅原道眞は、たたりで有名ですね。

太宰府天満宮
太宰府天満宮

筑後川の戦い

九州の南北朝時代

鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、従四位下に叙し、鎮守府将軍左兵衛督に任じ、また30箇所の所領を与えられた。

1333年

元弘3年/正慶2年(1333年8月5日には従三位昇叙武蔵守を兼ねるとともに、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名した[注釈 3]。尊氏は建武政権では自らは要職には就かなかった一方、足利家の執事である高師直、その弟・師泰をはじめとする家臣を多数政権に送り込んでいる。これには、天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した。

元弘3年/正慶2年(1333年)、義良親王(のちの後村上天皇)が陸奥太守に、北畠顕家鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになると、尊氏も、成良親王上野太守に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、建武元年(1334年)には父の命令で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。

建武2年(1335年信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行の軍勢は鎌倉を一時占拠する。直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良を殺害している。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。

直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ、京都からの上洛の命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪する[注釈 4] が、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。

九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社宗像氏範の支援を受ける。延元元年/建武3年(1336年)宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中ので光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。

尊氏は洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている[注釈 5]。足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言したがこれには直義の意向が強いとされる。実質的には、このときをもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立した。

武士の期待に答えた足利尊氏だったが・・・・

 1333年鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇を中心とする建武の新政が始まります。
しかし武家社会が定着した時代に朝廷中心の古い体制をもちこんだため、武士の間には不満が高まっていました。その中で鎌倉幕府を倒した功労者の一人・足利尊氏(高氏)は、建武五年(1335年)鎌倉でクーデターを起こし京へ攻め上ります。
足利尊氏
足利尊氏

しかし宮方の勢力(新田・楠木・名和など)に破れて九州へ逃れます。

そして九州で少弐氏など反宮方の九州守護たちの力を借り、宮方の菊池氏を破って勢力を盛り返すと、再び京へ攻め上り、宮方を破って後醍醐天皇を幽閉。


 

少弐氏は藤原姓を称し、北九州の中世史に大きな足跡を刻んだ武家である。その出自に関しては諸説があるが、はじめ武藤を称していたことは共通している。

ちなみに、『武藤氏系図』によれば、藤原道長の後裔で代々武蔵国に知行を持ち、「武蔵の藤原」を略して武藤氏を称したという。

一方、中世の系図集として信頼性の高い『尊卑分脈』を見ると、少弐氏は藤原秀郷流となっている。すなわち、藤原秀郷の後裔嶋田二郎景頼が武者所に出仕して近藤武者と称した。ついで景頼の子頼平も武者所に出仕して、武藤を号したと記されている。頼平は武者所の藤原から、武藤を称するようになったということになる。そして、頼平の子が資頼で、鎮西守護と記されている。ちなみに、頼平の兄も武者所に出仕して、近藤太能成を名乗り、その子能直は鎮西奉行に任じられ大友氏の祖tなった人物である。九州の戦国史を彩った少弐氏と大友氏は、その源をたどれば同族だったことになる。おそらく、少弐氏は藤原秀郷の流れを汲む武士であったと思われる。

少弐氏の登場

治承四年(1180)、源頼朝が挙兵したとき、武藤資頼は平家方に与した。そのため、三浦氏のもとに拘束されていたが、のちに免ぜられて御家人となった。文治二年(1186)、天野遠景が九州惣追捕使(鎮西奉行)に任ぜられ、武士の乱行停止や平家の残党討伐などに活躍した。しかし、その強引なやりかたが荘園領主などの反発をかって、遠景は鎌倉に召還され、そのあとの鎮西西方奉行には武藤資頼が抜擢されて大宰府に赴任した。これが、武藤少弐氏が九州と関係をもったはじめである。
資頼は筑、豊、肥の前三州の守護職にも補任され、大宰少弐も兼任した。少弐というのは大宰府の官名で、大弐の次に位置する定員二名の官職であった。長官が帥で、次官が大弐・少弐であり、これらによって九州諸国を治めていた。やがて武藤氏は、官職である大宰少弐から少弐を家名とするようになった。その後、壱岐・対馬の守護職をも兼ね、九州における一大勢力として北九州に勢いを振うようになった。
蒙古(元)が襲来した文永・弘安の役に際して、少弐経資・景資兄弟は目覚ましい活躍をした。とくに景資は、九州の守護・地頭を指揮して敵将の劉復亨を討ち取るという殊勲を挙げた。少弐氏の活躍ぶりは、竹崎季長が遺した『蒙古襲来絵詞』からも十二分にうかがうことができる。
弘安八年(1285) 、元寇の乱に活躍した景資が筑紫郡の岩戸城に拠り、兄の太宰少弐経資に反旗を翻した。経資は直ちに討伐軍を繰り出し、岩戸城を攻撃した。この合戦は単純な兄弟争いではなく、鎌倉で起った霜月騒動に連動したものであった。
霜月騒動とは、北条得宗の御内人で内管領をつとめる長崎頼綱と有力御家人安達泰盛の抗争で、幕府御家人を二分する擾乱となった。乱は安達方の敗北に終わり、多くの安達氏与党が討伐された。景資は泰盛方につき、これに筑前・豊前の武士たちが味方した。戦後、景資らの所領は没収され、九州の御家人に恩賞として与えられた。岩戸合戦とよばれるこの争乱は、元寇の乱後の恩賞捻出に苦慮した幕府が仕組んだものともいわれる。おそらく、その通りであったと思われる。
その後、幕府は九州地方の政務や裁判などをスムーズに進めるため、博多に鎮西探題を設置した。その長官である探題には北条一族が任じられ、その下に評定衆・引付衆・引付奉行人が置かれ、宇都宮氏、東郷氏ら九州の有力な御家人が任命された。しかし、鎮西探題の設置は、これまで鎮西奉行として、太宰府の長として九州に勢力を有した少弐氏の機能・権限は著しく低下させることになった。
その後、得宗専制政治が強化されるにつれ、少弐氏は筑前守護に任じられるばかりとなった。それは、少弐氏と並んで九州三人衆とよばれた薩摩の島津氏、豊後の大友氏らも同様で、かれらの北条氏への不満は募っていった。やがて、得宗専制政治による矛盾が顕在化し、ようやく時代は不穏な空気に包まれるようになってきた。

南北朝の争乱

貞経ら少弐一族を葬った菊池勢は博多に入り、さらに多々良浜に陣を進めた。その勢は四万とも五万ともいわれ、迎え撃つ尊氏方は一千騎に満たない寡勢であったという。戦に先立って尊氏は、筑前国宗像を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、菊池軍との戦いの火蓋を切った。
尊氏方は劣勢のうえに、貞経が足利軍のために調達した装備は焼失し、まことに心もとない有様であった。ところが、おりから大風が吹き始め、それが菊池方へまともに吹き付けた。そこへ、菊池軍に加わっていた松浦党が尊氏方に転じ、戦況は一気に尊氏方の優勢となった。ついに菊池方は潰乱し、菊池武敏は肥後に退却、阿蘇大宮司惟直は肥前で戦死、秋月種道は太宰府まで落ち延びたところで一族とともに討死した。
この多々良浜の合戦により、九州における尊氏の覇権が確立した。態勢を立て直した尊氏は、一色範氏・仁木義長などを九州の抑えとして残ずと、ふたたび京を目指した。そして、摂津湊川で楠木正成を討ち、新田義貞を敗走させ、後醍醐天皇を幽閉すると京都を征圧した。その後、後醍醐天皇は吉野に脱出して朝廷を開き、これに対抗して尊氏は北朝を立てて幕府を開いた。以後、半世紀以上にわたって南北朝の動乱が続くことになる。
九州では菊池氏が南朝方の中心にあり、それに鎮西管領(のち九州探題)一色範氏が武家方=北朝方の中心として対峙した。その後、後醍醐天皇は懐良親王を征西将軍として九州に下した。薩摩に入った懐良親王は、艱難辛苦のすえに肥後に入ると菊池武光と結んで九州南朝の勢力拡大につとめるようになった。
やがて、尊氏と弟直義の対立から観応の擾乱が起ると、直義の養子直冬(尊氏の庶長子)が九州に入った。一色氏と対立していた少弐頼尚は直冬を支援して、九州における第三勢力を形成した。しかし、直義が尊氏に敗れて殺害されると直冬はにわかに孤立化し、ついには中国地方へ逃亡した。その後、頼尚は宮方の菊地武光と結び、九州探題一色氏と対立した。一色氏は針摺原の合戦、ついで犬塚原の合戦に敗れ、ついに九州から長門国に脱出、九州は宮方の勢力が強大となった。

少弐氏の迷走

一色氏が退散したことで少弐頼尚は幕府方に転じ、大友氏と結んで宮方と対立するようになった。そして、正平十四年(延文四年=1359)、頼尚は大友氏時と連合して宮方挟撃策に出た。
対する菊池武光は征西将軍懐良親王を奉じ四万の兵をひきいて筑後平野に進出すると、筑後川を前に高良山・柳坂・水縄の三ヶ所に布陣した。頼尚は少弐一族、松浦党、龍造寺氏など六万の兵を擁して味坂に陣を布いた。戦いは激戦となり、少弐軍の大敗に終わった。しかし、宮方も懐良親王が深手を負うほどの損害を受け、太宰府に敗走する少弐軍を追撃することはできなかった。この戦いは、筑後川の戦いまたは大保原合戦とよばれ、日本三大合戦のひとつに数えられる。翌年、菊池武光は懐良親王を奉じて大宰府へ進出し、正平十六年、大宰府を征西府として九州宮方の本拠とした。以後、十数年にわたって九州宮方は全盛期を現出した。
九州の情勢を重くみた幕府は、新たな九州探題に今川了俊を登用し、事態の収拾にあたった。今川了俊はすでに幕府の重鎮であり、文武兼備の将として知られた存在であった。この事態に際して、頼尚の子冬資は今川了俊を九州探題として迎え、弟頼澄が西征宮懐良親王に従うというように、少弐氏内部で南北の分裂もみられた。
了俊はその卓抜した政治力と武略をもって太宰府を回復すると、次第に征西府方を劣勢に追い込んでいった。そして、文中四年(応安八年=1375)、菊池氏を討つため水島に陣を進め、島津氏久、大友親世、少弐冬資らに来陣を求めた。大友・島津氏はただちに応じたが、少弐氏は応じなかったため、島津氏が骨折りして少弐冬資の来陣を実現した。
ところが、少弐氏の進退を疑った了俊は、冬資を陣中の宴席において殺害してしまった。了俊の行動に怒った氏久は、そのまま陣をはらって帰国した。以後、島津氏は徹底的に了俊に敵対行動を取り続け、それは南北朝時代が終わるまで変わることはなかった。水島の陣の一件は了俊にとって、生涯最大の失策となった。冬資が了俊によって殺されたのち、少弐氏の家督は頼澄が継ぎ、菊池氏と結んで今川氏に対抗した。
島津氏が離反したことで戦力低下に見舞われた了俊は、幕府に対して周防の大内義弘の援助を依頼した。これが、のちに大内氏が北九州に進出するきっかけとなった。その後、了俊の攻勢によって九州南朝方は逼塞、明徳三年(1392)には南北朝の合一がなった。九州における最大の功労者は今川了俊であったが、その権勢の大きさに危惧を抱いた幕府は、大内氏らの讒言もあって了俊から探題職を取り上げると、京都に召還した。失意の了俊が去ったのち、九州は新たな政治情勢に直面することになる。

戦国乱世への序奏

了俊が解任されたあとの九州探題には、渋川満頼が任じられた。しかし、九州探題の存在は、少弐氏をはじめ大友・島津氏ら九州の諸大名にとって喜ばしいものではなかった。とくに、鎌倉時代より筑前に勢力を維持し、太宰府と深い関係を有する少弐氏と九州探題とは相容れないものがあった。幕府は渋川氏の補佐を大内義弘に命じ、義弘は渋川氏を支援するかたちで九州に勢力を伸張するようになった。
義弘が応永の乱で戦死したのち、大内氏には動揺があったが、混乱を制した盛見が家督を継ぎ大内氏の惣領となった。盛見は義弘の二十一歳下の弟で、母は京の名門三条氏、その質は頑強にしてかつ沈着冷静と評される一角の人物であった。盛見の力を高く評価した幕府は豊前守護職に補任し、探題渋川氏と並んで北九州の経営をになわせた。
応永三十年(1423)、少弐満貞は渋川義俊を攻め、博多から追い出してしまった。博多を追われ肥前国に逃れたた義俊は、大内氏をたのんで再起を企てた。一方、幕府は筑前を料所(直轄領)とし、大内盛見をその代官に命じた。かくして、大内氏は晴れて九州介入の名目をえ、少弐満貞は大友持直と結んで、大内=九州探題連合に対抗しようとした。永享三年(1431)、盛見は筑前進出を企てる大友氏を討つため筑前に出陣、終始優勢に戦いを展開し、立花城を攻略すると、さらに筑前の西部に進攻した。少弐・大友連合軍は筑前深江において大内軍を迎え撃ち、ついに盛見を討ち取る勝利を得た。盛見の戦死は幕府を驚かせ「名将犬死」と惜しまれた。
盛見のあとを継いで周防・長門・豊前・筑前の守護となった大内持世は、永享五年(1433)、九州に兵を進めた。少弐満貞は子の資嗣とともにこれを迎え撃ったが、満貞は秋月城で戦死し、資嗣は肥前与賀庄にいおいて戦死した。満貞らが戦死したのち、残された嘉頼・教頼らは対馬の宗氏を頼って筑前から逃れ去った。
嘉吉元年(1441)少弐嘉頼が対馬で没すると、弟の教頼は宗貞盛の支援を得て太宰府の回復を図った。しかし、大内持世の軍と戦って敗れ、ふたたび対馬に逃れた。ほどなく、京都で嘉吉の変が起り、将軍足利義教が赤松満祐に殺害された。義教に供奉して赤松邸の宴に参列していた持世は、事件に巻き込まれて死去した。この変に際して教頼は、赤松追討の幕命に反したばかりか、播磨から逃走した満祐の弟則繁をかくまったことで、幕府から討伐を受ける身となった。幕命を受けた大内教弘は九州に渡ると教頼を攻め、敗れた教頼は対馬に逃れ去った。

大内氏との抗争

その後、文安三年(1446)に至って、教頼は筑前守護に補任され太宰府に復帰できた。しかし、宝徳元年(1449)大内教弘の攻撃を受け、太宰府を逃れた教頼は肥前に走り龍造寺氏を頼った。
応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起こると大内政弘は上洛して西軍として活躍、教頼は東軍に味方して失地回復を狙った。そして、宗盛直とともに対馬から兵を率いて筑前に入ったが、大内軍に敗れ、翌年志摩郡において戦死した。
その後、大内氏の主力は京都を中心に活動するようになると、文明元年(1469)、教頼の子頼忠(政資)は宗貞国の後援を受けて太宰府の奪回を果たした。その後、東軍の政治工作もあって、将軍義政の偏諱を受けて政尚と改め、大内政弘と戦いを繰り返した。やがて、大内氏は少弐氏と宗氏の離間策を講じ、おりから、少弐氏を支援するかたちで肥前に出陣した宗氏が大敗を喫した。これがひとつの原因となって、少弐氏はもっとも頼みとした宗氏と疎遠になっていくのである。
文明十八年(1486)、小城の千葉胤朝と胤将兄弟が対立し、胤将は胤朝を殺害すると出奔し千葉氏は断絶に直面した。政資は胤朝の女に弟を配して千葉氏を相続させ、胤資と名乗らせて晴気城主とした。一方、大友政弘は胤朝の甥胤棟を庇護して胤資に対抗させたため、千葉氏は二つに分裂してしまった。文明二十一年、政資は筑紫満門・馬場経周らに命じて渋川刀禰王丸を攻撃、これを筑後に奔らせた。
その後も政資は肥前の有馬貴純や豊後の大友政親らと結んで大内氏勢力との抗争を繰り返し、少弐氏勢力の拡大に努めた。明応元年(1492)、筑前において大内氏の重臣陶興房と戦い、翌年には松浦郡に兵を進めた。つづく明応四年には、政資の子高経が上松浦において大内方の原田興種と戦い、これを打ち破った。

大内氏の攻勢に翻弄される

与賀神社 原田氏の敗北をみた大内義興は本格的に少弐氏攻めを企図し、翌明応六年、重臣の杉氏、陶氏を大将とする軍勢を九州に攻め入らせた。少弐氏は太宰府を失い、高経は神埼の勢福寺城に逃れた。勝ちに乗じた大内勢は、肥前に入ると勢福寺城を攻撃した。高経は父政資を庇護する千葉胤資の晴気城へ逃れたが、晴気城も大内軍に包囲され、政資・高経父子は胤資の勧めを入れて多久宗時の居城である梶峰城へと走った。政資・高経父子を落したのち、胤資は晴気城から打って出て討死した。
梶峰城に逃れる途中で高経が討たれ、政資は辛うじて梶峰城に入ることができた。しかし、大内勢が梶峰城に押し寄せてくると、ついに政資は切腹して果てた。その後、豊後の大友氏や旧臣横岳氏らの支援を得た政資の末子資元が少弐氏を復活させた。資元は勢福寺城を居城として着々と勢力を回復し、将軍家の意向もあって大内氏と和睦、資元は肥前守護となった。享禄元年(1528)、資元は松浦党の支援を得ると太宰府に進出した。これに対して、大内義隆は、享禄三年の夏、重臣の杉興運に資元討伐を命じた。
大内軍には筑紫尚門、横岳資貞、朝日頼貫らの少弐一族が先陣として加わっていた。迎かえ撃つ少弐勢は、重臣の馬場氏・江上氏、そして、龍造寺家兼(剛忠)・小田政光ら肥前の有力国衆であった。両軍は神埼郡の田手畷で遭遇し、戦いは激戦となった。そこへ、龍造寺氏配下の鍋島清昌が赤熊(しゃぐま)とよばれる異様な出立ちで大内軍の側面を攻撃したことで、大内軍は浮き足立ちついに潰走した。天文元年(1532)、大内義隆はふたたび少弐討伐軍を送ったが、これも龍造寺家兼の活躍で少弐方の勝利に終わった。この一連の活躍で、龍造寺家兼の存在は少弐家中において不動のものとなった。
一方、度重なる敗戦に業を煮やした大内義隆は、天文四年(1535)、みずから兵を率いて肥前に侵攻した。これにはさすがの少弐資元もたまらず、龍造寺家兼らの意見もあって勢福寺城を開いて大内氏に降った。三根・神埼・佐賀郡を失った資元は多久の梶峰城に入り、子の冬尚は小田氏の拠る蓮池城に逃れた。翌年、大内軍が梶峰城を攻撃すると、後藤氏・波多氏・草野氏らは大内氏に味方し、頼りの龍造寺家兼も傍観を決め込んだため、資元は父政資とまったく同じ場所・状況で自害した。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/syoni_k.html


新たに皇族から天皇を立てて、征夷大将軍となり、京に幕府を開きます。これが室町時代の始まりです。

ところが後醍醐天皇は逃れて大和・吉野で尊氏追討の号令を発し対抗(*2)。ここから京の幕府側を北朝(幕府方)。吉野の後醍醐天皇支持側を南朝(宮方)として、国内を二分した争乱が半世紀以上続くことになります。
そんな中で足利幕府内で将軍:尊氏と弟の直義が対立して分裂。互いに敵の南朝方と共同して争うなど、仁義も倫理もない複雑な展開をしていきます。もうぐちゃぐちゃ。これが太平記の世界……(=_=;A。

九州探題Vs九州三人衆Vs南朝

 

 九州では鎌倉幕府に任命された守護職、少弐氏・大友氏・島津氏の九州三人衆が、九州ので勢力を誇っていました。

三人衆は鎌倉末期、幕府(執権:北条氏)の九州での権力の増大から反幕に動いたのですが、その後の建武の新政への不満から、足利尊氏に協力し、九州の大半の武士は北朝側につきます。

このような北朝優位の九州で、足利幕府はさらに直轄勢力を植え付けるべく、家臣を[九州探題]として筑前に配置します。これには守護大名(*1)化して勢力を張っていた九州三人衆は反発します。

特に足利幕府に多大な犠牲を出して協力した少弐氏は、直接自領を奪われるため不満を募らせます。
このような二重の対立の中で肥後の守護・菊池氏(*2)は、九州の南朝方をささえます。

正平3年(1348年)後醍醐天皇の皇子・懐良(かねよし)親王を菊池氏の本拠・隈府(現・菊池市)に招いて、征西将軍府をおいて九州・南朝方の拠点として活動を活発化。
さらに足利幕府に反抗して転戦していた足利直冬(*3)も肥後へ入り、勢力拡大をはかります。

南北朝時代の九州勢力概図

 この状況下に少弐氏は、直冬を利用して南朝方を巻き込んで九州探題を攻撃。文和二年(1353年)には探題・一色範氏は菊池氏ら南朝方と少弐氏の前に破れ、文和5年に京へ敗走。

延文5年(1358年)に足利尊氏が没して意気上がる南朝方は、太宰府へ征西将軍府を移して北朝方・斯波氏や渋川氏など後任の探題を破って、九州を唯一の南朝優勢地域として隆盛を誇ります。

ちょうどこの頃、元々南朝方だった上相良氏は、不利な状況下で北朝(下相良氏)の軍門に下っていたものの、この隆盛をみて再び南朝方に寝返っています。しかし、下相良氏の勢い上回ることはできませんでした。

全国的に北朝・幕府方優位でも、九州の南朝方優位を切り崩せない足利幕府は、三代将軍:足利義満の頃、応安4年(1371年)重臣・今川貞世を九州探題に任命し、九州経営との南朝攻略に本腰を入れます。

ところがこれによって少弐氏と九州探題は対立は再燃。混乱はますます深まります。


正中元年(1324)

後醍醐天皇が討幕運動を企てた「正中の変」が起ったが、計画は事前に漏れて失敗に終わった。元弘元年(1331)、後醍醐天皇はふたたび討幕運動を企て「元弘の変」が起ったが、これも失敗に終わって天皇は隠岐に流罪となった。しかし、これがきっかけとなって討幕の気運が盛り上がり、九州では菊池氏が主導的立場に立って後醍醐天皇に応じた。
菊池武時は少弐貞経、大友貞宗を語らい、鎮西探題を攻める計画を練った。ところが、これを察知した探題北条英時は三者を召集した。この事態に接した武時は兵を挙げ、少弐・大友の両氏にも決起をうながしたが、少弐氏らは動かず菊池氏は敗れてしまった。少弐貞経らにすれば、ことが漏れた以上は時期尚早と断じたのであろうが、菊池氏に比して腰砕けの誹りは免れないものであった。
そのころ、隠岐を脱出して伯耆の名和長年に迎えられた後醍醐天皇は、諸国の武士に決起をうながす綸旨を発した。幕府は足利高氏を大将とする討伐軍を送ったが、高氏は天皇方に転じ、軍を京に返すと六波羅を攻め落した。高氏が後醍醐方についたことを知った少弐貞経は、大友貞宗、島津貞久らとともに鎮西探題を攻め英時を自刃させた。

かくして鎌倉幕府は滅亡し、建武元年(1334)、建武の新政が発足した。しかし、新政は恩賞の不平等や依怙贔屓などが多く、武士たちは次第に武家政権の再興を願うようになり、その期待は足利尊氏に集まっていった。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/syoni_k.html


【九州南北朝年表】(1336年~)

九州での南北朝の混乱は60年近く続きます。1392年に両朝が統一し、この戦乱は一旦収まるかに見えました。しかし、 今川氏が九州を去った後には豊前、筑前へ大内氏が触手を伸ばします。このため騒乱は応仁の乱を経て戦国時代まで続きます。 以下に筑前、筑後、肥前を中心にした南北朝~室町時代後半の年表を記載します。

 


1336年 少弐頼尚に迎えられた足利尊氏が「多々良浜の戦い」で菊池、阿蘇軍を破り、九州武士団を率いて再び京都へ攻め上る。 尊氏は九州を去るにあたって、天皇方の押さえとして一色範氏と仁木義長を残す。

1346年 一色範氏の嫡男・直氏が九州探題に任命される。

1348年 懐良親王が肥後の隈府に入り、征西府を起こす。

1349年 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起こる。足利尊氏、直義兄弟の関係に亀裂。尊氏の庶子・足利直冬が肥後川尻に上陸する。

1351年 月隈金隈の戦い。足利直冬を擁する少弐氏が菊池氏と協力した一色氏を敗る。

1352年 2月26日、鎌倉にて足利直義が没し、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が終わる。
同年に足利直冬は九州を退去。

1353年 1月22日、旗頭を失くした少弐頼尚が浦ノ城を一色範氏に攻められ窮地に陥るが、仇敵の菊池武光が援軍に現われ助けられる。
2月2日、針磨原の戦いで菊池武光と少弐頼尚の連合軍が一色範氏を破る。

1354年 姪浜、飯盛の戦い。一色氏は長門に追われる。

1358年 4月30日、京都にて足利尊氏死去。

1359年 9月29日、「大保原の戦い(筑後川の戦い)」が起こる。足利尊氏死去で勢いづいた南朝方の菊池武光が有利に戦いを進め、少弐頼尚は大宰府に撤退する。 菊池方の被害も多大だったため肥後に引き上げる。

1361年 8月、油山青柳の戦い。菊池氏が少弐氏と戦い勝利する。少弐頼尚は豊後に逃れる。
懐良親王が大宰府に入り征西府を移す。

1362年 九州探題に任命された斯波氏経が、豊後に入り大友氏と共に菊池氏と戦う。
長者原の戦い。少弐、宗像、松浦の軍が探題・斯波氏経の嫡男・松王丸を大将として菊池勢と戦うが敗れる。 翌年に氏経は九州から撤退する。

1365年 渋川義行が九州探題に任命される。義行は九州に上陸できず。

1370年 今川了俊が九州探題に任命される。

1372年 九州探題の今川了俊が菊池武光を追い、大宰府を奪還。武光は高良山に入る。

1373年 菊池武光が没し、武政が継ぐ。

1374年 菊池武政が戦の傷が元で没し、弱冠12歳の菊池武朝が継ぐ。
隈府では懐良親王より良成親王が征西将軍職を引き継ぐ。

1375年 8月、福童原の戦い。武光の甥・菊池武安が武朝と共に高良山より筑後川を越え、武家方と戦う。 武安は了俊の軍に敗れ肥後に退却する。
菊池氏を隈府追い詰めた今川了俊は水島で少弐冬資(少弐頼尚の次男)を謀殺する(水島の変)。 この暴挙で了俊と冬資の仲を取持った島津氏久は離反し、大友親世も兵を引き上げる。 少弐家は弟の頼澄が継ぐ。

1383年 八代にて懐良親王死去。

1392年 南北朝が統一される。

1395年 今川了俊が失脚し京都に戻る。

1396年 渋川満頼(渋川義行の子)が九州探題に任命される。

1423年 九州探題の渋川義俊(満頼の子)が少弐満貞(頼澄の孫)に筑前より追われ肥前に逃れる。

1425年 渋川義俊が再起を図るが、少弐満貞に再び敗れる。義俊は従兄弟の満直に家督を譲る。
九州探題を攻撃した少弐氏の行動に対し、幕府は大内盛見を下向させ満貞を破る。

1429年 少弐満貞が菊池氏と共に兵を挙げ、大内盛見と戦う。

1431年 筑前西部まで深入りした大内盛見が怡土郡で少弐満貞と大友持直の軍に討たれる。

1433年 大内盛見の甥、持世が筑前に侵攻し少弐満貞を秋月に討つ。

1434年 渋川満直が肥前にて少弐氏の一族に討たれる。

1467年 「応仁の乱」が起こる。1477年まで11年間続く。

1469年 少弐政資(満貞の孫)が「応仁の乱」で手薄になった大内勢を筑前、豊前から追う。

1478年 「応仁の乱」が終わったため大内政弘(盛見の孫)が九州へ兵力を向け少弐政資を攻める。政弘は豊前、筑前を奪い、政資は肥前に逃れる。

1496年 少弐政資が「筑紫の戦い」で大内義興(政弘の子)の軍に敗れ、肥前にて自害する。

1533年 渋川義長(満直の曾孫)が少弐氏と手を組んだため、大内氏に攻められ自害する。ここに九州探題は滅ぶ。

1530年 少弐資元(政資の子)は「田手畷の戦い」で大内軍を撃退した龍造寺家兼の仲介で大内義隆と和睦する。

1536年 少弐資元が大内義隆に攻められ父・政資と同じく肥前多久にて自刃する。

1544年 少弐冬尚(資元の子)の家臣・馬場頼周は1530年の大内氏との和睦に関して、龍造寺家兼の逆心を疑い策を巡らし龍造寺家を討つ。 家兼は柳川の蒲池氏の元に逃れる。

1546年 龍造寺家兼は鍋島氏・千葉氏を後ろ盾に兵を挙げ、馬場頼周を討ち、少弐冬尚と敵対する。

1559年 少弐冬尚が龍造寺家兼の曾孫・隆信に討たれ、少弐氏が滅びる。

-参考 「戦国九州軍記」(歴史群像シリーズ⑫/学習研究社)-

菊池氏のおこり

 

熊本県の北部を流れる菊池川の上流、熊本市から北東約25kmの場所に位置し、市域中央部から南西部は熊本平野の北東端にあたる。大宰府府官の流れをくむ菊池氏の本拠地・隈府(わいふ)を中心に市街地が形成されている。

東部は阿蘇外輪山の天然生広葉樹で覆われ、野鳥の宝庫。その間を縫う清冽な菊池川の源流が大小の瀬と渕と滝をつくり菊池渓谷をなしている。菊池渓谷は日本名水百選にも選ばれており、夏でも平均水温が13度で避暑地として知られ、毎年4月の山開き以後30 – 40万人の人が訪れる。この一帯の国有林は、1965年には九州で初めて自然休養林に指定されている。

北部は大分県と隣接している。

 

気候

  • 気温 – 最高38.8℃(2013年(平成25年)8月21日)、最低-9.9℃(1981年(昭和56年)2月27日
  • 最大降水量 – 352ミリ(1980年(昭和55年)8月29日
  • 最大瞬間風速 – 23.0メートル(2014年(平成26年)6月4日
  • 夏日最多日数 – 172日(2005年(平成17年))
  • 真夏日最多日数 – 102日(2013年(平成25年))
  • 猛暑日最多日数 – 23日(1994年(平成6年))
  • 熱帯夜最多日数 – 21日(2013年(平成25年))
  • 冬日最多日数 – 89日(1984年(昭和59年))

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%B8%82


 

菊池氏家紋:並び鷹の羽
菊池氏家紋:並び鷹の羽

 菊池氏は平安時代から室町時代にかけて、24代にわたり肥後(熊本県)や九州で活躍した一族で、今も菊池の人々には深い尊敬を受けています。

菊池氏の起源は、「大宰府の長官藤原隆家(たかいえ)の子孫、則隆(のりたか)が菊池氏の始まりといわれていましたが、最近の研究では、初代則隆は地方の豪族で、11世紀前半に大宰府の長官藤原隆家に仕えた武人であったという説が有力です。
当時の大宰府は朝廷の九州支配のかなめとであり、地方の豪族は子弟をつかえさせ藤原氏に接近することにより、中央貴族の子孫であると名乗ることでその権威を利用し勢力をのばしていったと考えられています。
菊池氏ははじめ、深川の菊の池に館をかまえ、菊池川により海外と交易を行い財をなしたと推測されています。
※参考文献:新菊池文化物語(菊池文化物語編集委員会・菊池市教育委員会編)

現在も「菊の池」は存在しますが、数年前に整備されて現代の公園になってしまいました。「菊の池」という名称は、管理人が通った小学校(菊の池小学校)の名称でもあるため、どこか懐かしさを感じる響きです。

菊池神社
菊池神社

菊池神社の主祭神は第12代菊池武時公、第13代武重公、第15代武光公で、第16代武政以下26柱が配祀されています。

菊池神社は慶応4年(1868年)、皇室に忠義を尽くしてきた菊池一族を称えて、明治天皇が熊本藩に菊池氏を顕賞し祭祀を行うよう命じられました。これにより、明治3年(1870年)菊池城本丸址に社殿を造営、同年4月28日に鎮座せられ、明治11年に別格官幣社に列せられました。

菊池神社の周囲一体は桜・つつじの名所で、桜の花の頃は多くの行楽客で賑わいます。

 

http://xn--btw921c.net/archives/23#more-23


 

菊池千本槍

太刀洗と共に、九州豪族菊池氏の勇猛さ、及び武士の精神を表す言葉である。

また、菊池氏が考案したとされるの様式を指す言葉としても用いられ、こちらを指す場合には「菊池槍(きくちやり)」とも呼称される。

長い柄の先に主に突くことを目的とした刃を装着した武具、現在では「槍」に分類される武器そのものは古来より日本に存在していた(「」(「鉾」とも)と呼ばれた)が、平安時代以降、日本の戦争における戦法は馬上からの弓矢や、薙刀野太刀によるものが主流であり、戦闘自体も騎馬に乗った武士とその徒となる者が組となった少人数同士で行われるもので、多人数の集団による戦闘は一般的ではなかった。
そのため、武具も個人が単独で用いるものが主流であり、槍のような集団で用いるものはそれほど普及はしていなかった。
南北朝時代箱根・竹ノ下の戦いにおいて劣勢となった南朝方の菊池氏が竹竿の先に短刀を縛り付けた即席の槍を用いて逆撃に転じ、相手方の足利勢を敗走させた。

この戦いから「菊池千本槍」の逸話が生まれ、菊池氏の名を大いに高めたと共に、“劣勢の側が創意工夫を以って多勢を征する”事の例として、武家の精神的支柱の一つとされた。
従来の弓や薙刀と違い、集団で用いることでより戦闘力を発揮するこの槍の登場は、その後の日本の戦法に大きな影響を与えた。

以後、菊池氏を中心に主に九州でこの様式の槍が多く作られ、「菊池槍」の名で用いられたが、より槍として洗練された形状のものが普及すると槍の様式としては廃れ、多くは短刀に仕立て直されて再び短刀として用いられた。

 

杖その他に刀剣類を内蔵させた、仕込み刀と呼ばれる一連の武器の中に「仕込み打刀(しこみ-うちがたな)」(もしくは「仕込み槍(しこみ-やり)」)と呼ばれるものがあり、これは外観は通常の日本刀のようでありながら、柄の側に短刀の刀身が仕込んである(“柄”は実は「鞘」であり、“鞘”の方が使用時の「柄」になる)という隠し武器の一つである。

菊池槍様式の槍の穂先の中にはこれらに用いられていたものもあり、文献等ではこの“刀の柄部分に短刀を仕込んだ隠し武器”を「菊池槍」の名称で紹介していることがあるが、上記のように菊池槍とは槍のうち、ある一つのものの伝来と種類を指す名称であり、仕込み打刀(仕込み槍)のみを指して“菊池槍”と呼称することは誤りである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%8D%83%E6%9C%AC%E6%A7%8D


伝来[編集]

鎌倉幕府の滅亡と建武の新政の崩壊の結果、北朝方と南朝方に分かれての戦乱が激化すると、南朝方であった菊池氏は新田義貞の指揮下に入り、各所で足利勢と戦った。

建武2年(1335年)11月、箱根・竹ノ下の戦いにおいて、足利尊氏の弟として知られる足利直義の率いる兵3,000名と戦った菊池勢1,000名は足利勢に圧され、弓、薙刀の大半を失い敗走寸前の状況に陥った。

この際、菊池勢を率いる菊池武重が、竹藪から各自、手頃な竹を6~7尺(約180~210cm)から2間(約364cm)ほどに切らせ、それに各自が腰に差している短刀を結わえて作らせた即席の槍を発案した。これを用いて菊池勢は反撃に討って出、これまで見た事のない武器を用いた相手に足利勢は大いに苦戦する。結果、窮地に陥っていた菊池勢は1,000名の兵で3,000名を敗走させた。

その後、武重は大和国より肥後国菊池に移住した刀鍛冶・延寿国村(えんじゅくにむら)に、この武器を元にした槍を改めて作らせた。これが肥後延寿派の刀工の起源とされる。


熊本県の県民性は、
いわゆる九州男児的なタイプと言えるでしょう。
「肥後もっこす」という言葉がありますが、
これは頑固者の意味。
男女の性格は多少違いますが、
全体的に強情で気性が激しく、
曲がったことが大嫌いです。
正義感が強いため、
正しいと思うことに対する行動力があります。
古くから男尊女卑が浸透している土地柄と言われてきましたが、
近年は女性の自立によって変化してきたようです。
女性も自分の意見をはっきり言うようになり、
男女共に自己主張が強くなっています。

 

恋愛観と結婚観

恋愛観と結婚観は、
感情優先のタイプと考えると理解しやすくなります。
感情を傷つけられてしまうと中々修復が難しいため、
相手の気持ちに配慮しながら交際していく必要があります。
結婚生活においてもそうで、
すぐ感情をむき出しにする人同士だと上手く行かないでしょう。
嫉妬深い男性が多いため、
熊本の男性に合わせるためには、
誠実で尽くすタイプになる必要があります。
男女ともどちらかというと恋愛には慎重で、
チャラチャラした雰囲気はありません。

 

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十五代 菊池武光(1319年~1373年)

菊池武光
菊池武光

15代当主。13代武重の腹違いの弟に当たります。

菊池武重
菊池武重

博多合戦にもわずか14歳で同行していましたが、父武時と別れた後博多の聖福寺にかくまわれて難を逃れました。

菊池武時
菊池武時

肥後に帰ってからは豊田十郎と名乗り、益城で一族の庶流として活動していましたが、合志幸隆に奪われた菊池の本城を奪い返し、その後当主の座に着きました。この時、阿蘇家庶流の恵良惟澄と協力していますが、その後もこの2人は深い協力体制を築いて共に戦っています。

武光が家督を継承してまもなく、後醍醐天皇の皇子懐良親王を征西将軍として迎え、菊池は九州南朝方の中心地「征西府」となります。武光は懐良親王の下で侍大将として九州各地を転戦し、百戦百勝と言われる戦績を残しました。

日本三大合戦の1つに数えられる、1359(正平14)年の筑後川の戦い(大保原の合戦)では、6万騎と伝えられる北朝軍に4万騎で挑んだと言われており、多くの犠牲を払いながらも大勝利を収めました。

筑後川の戦いで勝利を収めた武光はさらに兵を進め、当時の九州の中心地である大宰府を占拠しました。翌年九州の北朝勢をすべて降参させると、征西府を大宰府に移し、九州南朝方の、そして菊池一族の最盛期を築き上げたのです。

九州を平定した征西府は、南朝朝廷の要請に応じ、海路で上洛を計画します。ところが、北朝方の大軍勢の前に大敗。この失敗を機に勢力は衰退しはじめ、九州探題今川了俊の前に大宰府からも撤退を余儀なくされます。これが、全国で唯一、南朝方を有利に導いた英雄の最期となりました。

武光の死亡の時期や原因は、はっきりとはわかっていませんが、この大宰府を撤退する時に受けた傷がもとで亡くなったとも、それ以前から患っていた病気が原因とも言われています。

武光の功績は、その輝かしい戦績ばかりではありません。かつて博多で自らを保護してくれた聖福寺の元恢和尚を招いて正観寺を建立し、その下に鎌倉五山にならって、東福寺、西福寺、南福寺、北福寺、大琳寺を菊池五山として制定し、現在まで残る寺社の整備をはかりました。

また、国の重要無形民俗文化財に指定されている「菊池の松囃子」は、遠方からはるばる菊池に下向した懐良親王を慰めるために、武光が始めたことが起源とされており、670年経った今でも、絶えることなく受け継がれています。

http://www.city.kikuchi.lg.jp/kankou/q/aview/187/2032.html


武重の弟で、もとは豊田十郎といい現在の熊本市城南町付近に居を構えていたが、十四代武士が奪われた菊之城を奪還し、家督を継承した。

その後、阿蘇氏の庶家恵良惟澄と協力し、正平3年(1348)菊池に懐良親王を迎え、兄武澄らと結束して親王を支え、九州探題一色範氏と勢力を争い、1359年の大原の戦い(大保原の戦い、筑後川の戦い)で勝利し、1361年懐良親王は大宰府に征西府を置き菊池一族の歴史は最盛期を迎えた。

しかし、1368年の東上計画の失敗を機に徐々に一族、南朝の勢力は衰退することとなる。

1372年に大宰府を奪い返され、このときの戦傷がもとで翌年(1373年)死去。

武光は袖ヶ浦の別れにも同席しており、菊池へ帰る折にかくまってもらった博多の臨済宗聖福寺の大方元恢和尚を菊池へ招き、熊耳山正観寺を開いた。併せて懐良親王の命により菊池五山(東福寺・西福寺・南福寺・北福寺・大琳寺)を開いている。

墓所は正観寺の境内にあり、大きな樟(正観寺の樟:県指定天然記念物)を墓木としながら、1779年に渋江紫陽、松石親子や宗伝次らによって亀趺の墓が建てられている。

菊池神社の主祭神の一柱として祭られている。

菊池武光の墓武光の墓。兵庫県湊川神社にある楠正成の墓(水戸光圀建立)を模した、とされているが、見た目は異なる。南朝功臣の墓碑に対し亀趺を用いる、という考え方を模したとも考えられる。

http://www.city.kikuchi.lg.jp/kankou/q/list/147.html


肥後益城郡豊田庄(現熊本県熊本市城南町)出身。柔弱な弟の武士の代理として、興国6年/貞和元年(1345年)に阿蘇惟澄と共に菊池氏の居城深川城北朝勢力から奪還する。これを契機に一族中で頭角を現し、後に隈府城に入って当主の武士を廃し、武光自らが当主となった。

その後南朝後醍醐天皇の皇子で、征西大将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。

正平6年/観応2年(1351年)には筑後に進出して勢力を拡大し、正平8年/文和2年(1353年)2月には北朝の九州探題一色範氏少弐頼尚の争いに介入し、筑前針摺原にて一色探題軍を撃破する(針摺原の戦い)。

九州探題
九州探題

 

同年7月には筑前飯盛山にて再び一色軍を破り、続いて正平9年/文和3年(1354年)からは豊後肥前などに進出して大友氏泰を降伏させ、探題一色範氏を長門に追放し、九州における南朝勢力の優勢を確立した。

正平11年/延文元年(1356年)10月に九州へ侵攻するが、豊前で再度これを撃破。ここに至って一色範氏は九州制圧を断念し、京へ帰還する事となった。正平13年/延文3年(1358年)1月には父範氏に代わって探題となった一色直氏がなおも挑んできたが武光はこれを撃退し、同年11月には日向畠山直顕をも破って、ついに九州の足利氏勢力をほぼ一掃した。

筑後川の戦い

筑後川合戦図

だが、外来勢力であった九州探題が没落すると、それまで南軍に服していた少弐・大友らは再び反南軍勢力に転ずることとなった。これにより正平14年/延文4年(1359年)3月には、大友氏時の反攻を受け敗北を喫した。しかし勢力を盛り返して氏時を破り、7月には懐良親王を擁して南軍の総力を挙げて筑後に進軍し、少弐頼尚に対して決戦を挑んだ。南軍は高良山に陣を敷き、対する少弐軍は筑後川右岸の味坂に軍を進め、ここに史上名高い筑後川の戦い(大原合戦・大保原合戦)の幕が切って落とされた。

この合戦は菊池軍4万、少弐軍は6万の兵力を擁したと伝わり、まさに九州の合戦史上最大の戦いとなった。この合戦では、7月19日に菊池勢が筑後川を渡河したのを機として、少弐勢が大保原に退いて以降一進一退の攻防が続いたが、8月7日に両軍の主力が激突する大激戦となった。この日の激戦は、南軍の総帥である懐良親王が3ヶ所の深手を負うほどであったが、武光をはじめとした南軍諸将の奮戦もあってこれに勝利した。少弐勢は総大将頼尚の子息直資が戦死したのをはじめ、2万以上の死傷者を出し大宰府へ敗走、一方の菊池勢も武光の甥である武明や一族の赤星武貫らが戦死し、こちらも多くの死傷者を出したため、これを追撃する余力は無かったといわれる。

なお、この戦いの後に、傷ついた武光が己の太刀についた血糊を小川で洗った事から太刀洗(現福岡県三井郡大刀洗町)の故事が生まれたと伝わる。この他、筑後川古戦場付近には「大将塚」、「千人塚」、「五万騎塚」などこの時の合戦に由来する地名が数多く残されている。

出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E5%85%89

筑後川合戦

 

筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は、南北朝時代1359年8月29日延文4年/正平14年8月6日)、筑後川をはさんで南北朝が戦った戦。大保原の戦い、大原合戦とも。日本三大合戦の一つ。

 

1336年延元元年)、後醍醐天皇征西大将軍として九州に当時8歳の皇子・懐良親王を派遣し、彼を奉じた菊池武光は、高良山毘沙門岳に城を築いて征西府とした。

菊池武光
菊池武光

 


将軍藤

  • 県指定天然記念物
    昭和45年(1970年)5月2日指定

この藤は根元周囲3m、胸高周囲2mで、地上1.7mから幹が分岐し、高さ2mの棚の上に枝が広がり、その被覆面積は204㎡に及ぶ。 樹勢は旺盛で、樹齢は約650年と推定される。

正平14年(1359年)、南朝の征西将軍宮懐良親王・菊池武光(太刀洗の銅像五条家)と北朝の少弐頼尚の両軍が激突した大保原合戦で懐良親王が手傷を負った際に、その快癒を祈って大中臣神社に祈祷をしたところ、その加護で全快したことに謝し、この藤を奉納したと伝えられている。

出典 http://kurumenmon.com/ogoori/fukudou/onakatomijinjya.html


 

足利尊氏が幕府の内訌であった観応の擾乱を治め、八幡の戦いを制し、1354年(正平9年/文和3年)に南朝の支柱であった北畠親房が没すると、南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族のみとなった。

延文4年/正平14年7月、懐良親王、菊池武光、赤星武貫宇都宮貞久草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時城井冬綱ら約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦った。

戦いの苛烈さについては頼山陽も詩に歌っている。この戦いで足利側の少弐直資は戦死、南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、両軍合わせて4,800余人が討死にしたといわれる。この戦いに敗れた足利軍は大宰府に逃れ、九州はこの後、幕府が今川貞世九州探題として派遣するまでの13年ほどは南朝の支配下に入ることとなった。

征西将軍宮懐良親王が布陣した場所が現在の福岡県久留米市宮ノ陣である。福岡県小郡市には、将軍藤、大保、前伏、高見下など、この戦いに関連すると考えられる地名や史跡がある。また、戦いののち、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗った場所が、筑後国太刀洗(たちあらい、現福岡県三井郡大刀洗町)であるという伝承がある。

南北朝時代菊池武光が小川を渉ったところを「菊池渡り」といい、太刀を洗った川を「太刀洗川」と称するようになったことが「太刀洗」という地名の由来だと言われている。

 

正平14年(1359)8月7日大保原(小郡市)で武家方の小弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、さらに敗走する敵を追って山隈原まで進出した。この方面で戦っていた小弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れた。
武光はさらに小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとした。しかし夜明け前からの激戦で死傷者は小弐方1万8千人、菊池方6千9百人と伝えられるように味方も損害が大きくまた疲れきっていたので、進撃することを止め、軍を山隈原にまとめた。
朝からの戦いで血まみれの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刀は鋸のようにこぼれており、川の水は真っ赤に染まった。

 

菊池武光公大刀洗之碑
菊池武光公大刀洗之碑

出典 https://anaba-na.com/12420.html
「帰来河水に笑って刀を洗えば、血は奔湍にほとばしって、紅雪をふく・頼山陽」 「そのかみの血しおの色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川・乃木希典」 古人は、このありさまをこのように詠じている。
この故事によって、本町は大刀洗町と名づけられた。

https://www.town.tachiarai.fukuoka.jp/page/page_00693.html

 

 

 

出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E5%BE%8C%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 

筑後川での戦勝後、武光は北軍の掃討を推し進め、正平16年/康安元年(1361年)7月には自ら出陣して、ついに古より九州の「首府」であった大宰府の制圧に成功する。8月には頑強な抵抗を続けていた少弐氏も本拠地の有智山城を放棄して豊後の大友氏の元へ落ち延びると、懐良親王は大宰府に入城し、ここに征西府を移して「懐良親王-菊池武光」による九州支配の体勢を確立した。 この少弐軍惨敗の報告に、終始北軍勢力が圧倒していた京都の政界では激震が走り、将軍足利義詮は氏時に対して頼尚と協力して征西府を攻撃する事を命じ、同時に当時幕府の最高実力者であった斯波高経の子息氏経を新探題として九州へと派遣した。また後光厳天皇は武光の武威を恐れて、「鎮西宮並びに菊池武光以下、凶徒追討の事」と、その追討を命じる綸旨を出した。

正平17年/貞治元年(1362年)8月、武光は未だ征西府に服さぬ大友氏時を討つべく、弟武義を征西府の守将に就かせ、自らは豊前豊後方面へ出陣した。この隙を突いて新探題斯波氏経は子息松王丸を大将として、少弐冬資らに大宰府を襲撃させた。不意を突かれた征西府軍ではあったが、守将の武義は負傷しながらもこれをよく防いだ。この間に武光も豊前より馳せ戻って救援し、一族の城武顕とともに探題軍を打ち破った(長者原の戦い)。探題氏経はこの敗報に接すると戦意を喪失し、翌年春には京都へ逃げるように帰還した。

その後も懐良親王と武光率いる征西府の武威は益々高まり、正平20年/貞治4年(1365年)、氏経に代わって探題に就任した渋川義行を一歩も九州の地に踏み入れさせず、空しく京都へ帰還させるなど、正平16年/康安元年の大宰府入城より11年間は征西府の絶頂期であった。

本朝智仁英勇鑑・菊池武光(月岡芳年作)

東征の挫折

九州をほぼ南軍一色に染め上げた懐良親王と武光は、その勢いをもって東上を決意。折りしも都では将軍義詮が没し、幼少の義満がその跡を継いだ。

これを好機と見た征西府は、正平23年/応安元年(1368年)2月に東征の軍を起こして長門周防方面へ進軍を開始した。全国各地で南軍が劣勢に立たされる中、九州で圧倒的優位を誇る征西府は、まさに南軍最後の希望であり、『北肥戦誌』や『鎮西要略』によると、この時の東征軍は菊池・島津・伊東・原田・秋月・三原・草野・松浦・星野・平戸・千葉・大村・山鹿などの九州の有力諸氏を従えた7万騎と号する大軍であったとされる。

しかしこの南軍の起死回生を狙った一大計画は、征西府軍が瀬戸内地方の制海権を完全に確保し切れていなかった事もあって、北軍に転じていた大内氏により下関付近で進軍を阻まれ、逆に大損害を被る敗北を喫してしまった。結局これによって征西府軍による東征計画は敢え無く失敗に終わり、大宰府へ敗走した懐良親王と武光は、なおも九州における征西府の勢威を維持し続けたものの、この東征失敗以降、征西府は徐々に衰退していく事となった。

 


護国山国分寺は天台宗の寺院で本尊は聖観世音菩薩である。

板碑は高さ約1mの板状自然石の表面に左・右・下の三方を長方形の輪郭で囲んだ中に、地蔵菩薩来迎図を線刻したものである。
「沙門長弁 敬白 正平廿二年丁未九月日彫手 春助」の銘があり、室町時代の1367年に建立されたことが分かる。(県指定文化財)

大刀洗からこの一帯にはおびただしい戦死者が出て、その霊を慰めるために地蔵菩薩来迎図板碑が作られ、高良山に納められたといわれていますが、明治2年(1865)の神仏分離令で、板碑は高良山愛宕神社の奥の院から宮ノ陣・国分寺に移されたといわれる(「筑後将士談」「大宰府管内志」)
「青山堂筆記」によると、はじめ祇園山古墳に建てられていたものを元文(1736-1741)の頃、愛宕山に移していたという。
明治2年2月、高良山明静院住持だった霊徹が宮陣の国分寺に移転させられた時、明静院の2つの仁王像も国分寺門前に移されたということです。

宮の陣国分寺門前の仁王像


神仏分離令の発布:

  • 中央公論「日本の歴史・別巻・年表」によれば、神仏分離令は明治元年3月28日に出され、以後全国に廃仏毀釈運動が起こったとされている。
  • ウィキペディアによれば、神仏分離令(正式には神仏判然令)〔慶応4年3月13日(1868/4/5))から明治元年10月18日(1868/12/1)に出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称で、全国的に行われた〕

後醍醐天皇の皇子である征西将軍懐良親は王念持仏である阿弥陀像を宮ノ陣神社の場所に安置し、一株の紅梅を植え百万遍を唱えたとされています。

懐良親王(吉野・南朝)は菊池武光・草野永幸ら宮方の軍勢を率いて、正平14年(1359)8月、南下してきた小弐頼尚らの足利方(京都・北朝)の大群と大保原(現在の小郡市から宮の陣)で激しい戦いを繰り広げました。これが日本三大合戦の一つとして有名な「大保原の合戦(筑後川の戦い)」で、懐良親王は筑後川を渡り、現在の「宮ノ陣」に背水の陣を構えたのだそうです。

明治21年にこれらの故事にちなんで、高良神社宮司船曳鉄門がここに神殿を創建しました。後征西将軍宮良親王(懐良親王の甥)を祀ったのが宮ノ陣神社の始まりで、明治44に懐良親王の霊を合祀しました。

境内には懐良親王お手植えと伝えられている将軍梅(紅梅)があります。また、大刀洗の地名は菊池氏が太刀を洗った場所と言い伝えられています。

この戦いは相当な激戦であったらしく、戦後、戦没者の霊を慰めるために、この地蔵菩薩来迎図板碑が作られ、高良山に安置されたといわれます。

しかし、明治時代の神仏分離令によって高良山から国分寺へ移されます。

「名誉住職の板碑についてのお話」

この板碑を拝見しようと再度伺い、御住職に上記のような話を伺いました。
(名誉住職は1911年生・明善校卒、石橋幹一郎氏の一年後輩、とてもお元気です。)
板碑は本堂祭壇の右手に飾られていて、暗くてなかなかよく見えません。
宮の陣神社の説明板も参考にしました。

出典 http://kurumenmon.com/miyanojin/kokubunji/kokubunji.htm


【長者原の戦い】(1362年)

鎌倉時代の鎮西探題に代わって設置された九州探題には足利一族の一色氏が就くのですが、 「観応の擾乱」が起こると武家方はこの一色氏と筑前国守護の少弐氏の二派に別れ戦うことになります。 この内訌が要因となり、武家方は劣勢となり一色氏は九州を去り、少弐氏は菊池氏を中心とした宮方に大宰府を奪われることになります。 1361年、幕府は九州を取り戻し、政権下に組み込むため斯波氏経(しばうじつね)に九州探題を命じます。 氏経が豊後の高崎山城に入ると、翌年には宮方の菊池武光はそこに兵を向けますが、 その隙を突き氏経の子・松王丸を旗頭とした武家方の兵7000が大宰府攻略ため筑前北部より侵入し長者原に陣を取ります。 そこに菊池勢5000人ほどが駆けつけ攻撃を開始しますが、迎え撃った武家方の勢いが強く、菊池勢は2㎞ほど兵を引きます。 武家方はこれに一息ついていましたが、そこに城越前守(じょうえちぜんのかみ)率いる宮方の新手500の兵が突撃し、 乱戦の中、武家方の中心武将を討ち取ります。 これを契機に宮方は盛り返し、武家方は散々に打ち破られ大敗する結果になりました。

http://www10.plala.or.jp/dazaifu/fmmain1nanbokucho.html


大宰府陥落

一方、一色父子・斯波氏経・渋川義行と相次ぐ探題の任務失敗に業を煮やした北軍は、名将と名高い今川貞世(了俊)を新探題として派遣することを決定。貞世は建徳2年/応安4年(1371年)2月に出京すると、途中、幕府への援軍を請う為に上洛中であった少弐らの九州武家を従えつつ、甥の仲秋を肥前方面へ遣わし、また子息義範を豊後方面に遣わすなど、着々と九州攻略の方策を推し進め、自らは11月後半に下関へ到達した。この今川探題の動きを警戒した武光は、豊後に入った義範を討つべく、懐良親王の王子と伝わる伊倉宮を奉じて、義範の篭る高崎山城を包囲した。しかし高崎山城の防御は固く、この間に毛利・吉川など中国地方の豪族の合力を得た貞世は下関から門司へ上陸すると、肥前へ進んでいた仲秋も筑前への進軍を開始。こうして今川探題軍は早くも征西府の「首府」である大宰府を窺う勢いを見せ始めていた。

この報に接した武光は、翌文中元年/応安5年(1372年)正月に高崎山城の包囲を急遽解いて筑前へ帰還し、2月には嫡男武政を仲秋軍の押さえとして肥前へ進めさせたが、仲秋軍によって返り討ちに遭い、逆に仲秋軍の筑前侵入を許してしまう事となった。これによって探題軍は更に勢いづき、貞世は博多、さらには博多-大宰府間の要所である高宮を押さえると、いよいよ大宰府に向けて軍を発し、九州・中国の諸氏と合流しながら、大宰府北部にある佐野山に陣を張ると、4月から8月まで大宰府を包囲した。

九州・中国諸氏の軍勢を合わせて圧倒的な大軍となった今川探題の前に、懐良親王や武光らは大宰府に篭城しつつ、九州各地の南軍勢力の蜂起を期待したものの、菊池武安の筑後攻勢なども失敗するなど、戦況は征西府側に好転せず、ついに探題軍は8月10日から大宰府に対して総攻撃を開始した。この戦いでは両軍入り乱れてかなりの激戦となったが、翌11日には武安が守る有智山城が落城し、12日には大宰府の防衛維持が不可能となり、懐良親王と武光をはじめとする征西府軍は大宰府を放棄、筑後の高良山へと逃れていった。ここに懐良親王の大宰府入城以来、11年に亘って九州に覇を唱えた征西府は事実上崩壊した。

高良山(福岡県)


【今川氏の九州攻略】(1372年) 

1370年、九州に入ることも叶わなかった渋川義行に代わり九州探題に命じられた今川了俊は、 九州攻略を三方面より進める策を取り、豊後に嫡男の今川貞臣を上陸させ高崎山城に籠城させます。 また弟の今川仲秋を肥前へ上陸させ大宰府へ向かわせ、そして自らは豊前門司より大内氏などの中国勢と共に上陸します。 この間、宮方の菊池武光の嫡男・菊池武政は高崎山城の攻略から、肥前方面の今川勢の押さえへと慌しく動きますが、 今川の勢いを止めることはできませんでした。 了俊はその半年後(1372年6月)に懐良親王、菊池武光を筑後に追い、大宰府を12年ぶりに武家派の勢力下に置きます。

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武光の死

大宰府を追われた懐良親王と武光であったが、高良山は要害の地であり、いかに大軍を擁する今川探題とはいえ容易に攻める事は出来なかった。また武光も武政や武安に命じて筑後川北岸に陣を敷いた探題軍を攻撃させたが、筑後川を渡河する事が叶わず、両軍は膠着状態に陥った。この高良山攻防戦の最中の文中2年/応安6年(1372年)11月16日に武光は死去したと伝わる。没時の年齢は不明であるが、一説に52歳であったと言われている。

武光の死後、嫡男武政が菊池の惣領となったが、わずか半年後の文中3年/応安7年(1374年)5月26日に死去し、まもなく高良山も陥落するなど、以後の征西府の衰退は決定的な状況となっていった。


【福童原の戦い】(1375年)

小郡市「福童古戦場」

今川了俊に大宰府を攻略され、高良山に移った菊池氏はそこで抵抗を続けますが、不運なことに、翌年に菊池武光、 翌々年には後を継いだ菊池武政が立て続けに没します。 1375年、武光の甥・菊池武安は現状を打開するため高良山を降り福童原(小郡市)に兵を進めます。 そこで今川方の山内、毛利氏等の兵と激突し乱戦となりますが、そこに了俊の軍が駆けつけたため、 戦況が悪化し、遂には破れ、高良山へ再び撤退します。この戦いを最後に菊池氏は筑後を去り肥後へ戻ります。

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水島陣の謀殺

 そんな中でも探題・今川貞世は着任早々太宰府を攻め落とし、永和元年(1375年)には南朝方の菊池氏を本拠の隈府・菊池城へ追い込み、陥落も目前となります。

このとき今後の九州の戦後処理を談合するため今川貞世は、九州三人衆:大友氏・島津氏・少弐氏を肥後・水島へ招集をかけます。大友親世・島津氏久は来陣したものの、探題と対立してきた少弐氏当主:冬資は来陣しませんでした。
困った今川貞世は島津氏久に仲介を頼み、冬資に来陣をうながします。冬資も先祖代々朋友である島津氏に請われては断り切れずに水島に来陣。

会談は成功と思いきや、酒宴で今川貞世の弟・仲秋らが勇んで少弐冬資を殺します。結果的に冬資刺殺に荷担したことになり、面目丸つぶれの島津氏久は怒って薩摩へ帰り、大友氏も見限って去り、以後九州三人衆は反今川(反九州探題)の行動を始めます。

冬資を殺された少弐氏は南朝寄りの弟・頼澄が継ぎ、南朝方の菊池武朝と結んで仇の探題・今川氏貞世と戦います。

少弐冬資刺殺は失敗だったものの、今川貞世の九州戦略はこののち南朝を封じ込め(*1)、九州三人衆を巧み抑えて九州経営に手腕を発揮してゆきます。
ところが応永二年(1395年)足利幕府によって今川貞世は突然探題職を罷免され帰京。これによって九州での幕府の権威は失われていきます。

 

 

 

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